夢ソフト

■ unreasonable fate(2)

「イヤです! ヴァルフォースにだけは出たくないです! だって世界中の人達に見られちゃうんですよ!?」

「わかった。では君の羞恥心を軽減する方向で考えよう。手始めにこのレスラーマスクを着けるのはどうかな」

           ――山田カレン(仮)と田中イチロー(仮)

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「あちゃー……こーりゃ旗色悪いですねェ」

「そうだな」

銃声が鳴り響くタワーマンションから遠く離れた丘の路上で、並んで立つ二人の男が言葉を交わす。

「どいつもこいつもポコポコ撃ち殺されちゃってまあ……使えねー、マジ使えねェー」

夕方から夜までの間に掻き集めたフリーランサー達によって構成された美澤エレナ誘拐チームが、一人、二人、また一人と数を減らしていく。急造の臨時チームとはいえ彼らは同一のコンバットリンクに参加し、また彼らの雇い主である二人の男も離れた場所からではあるがリンクに加わっており、各員の位置情報と視覚映像などから現在の戦況を把握していた。

「そんなのを集めたお前が悪い」

「いやまァそうなんですけど……あ、また死んだ」

しかし口調の軽い男が集めたメンバーは、本来ならばそこまで貶されるような連中ではない。これまでにも多くの汚れ仕事を請け負い、インテグラルの使い走りとして充分に役目を果たしてきた実績がある。それだけに今の状況は予想外のものだった。

「だいたいあいつら本当にヴァルキリーの育成官なんですか? いくらなんでも手慣れすぎでしょアレ」

美澤エレナを護りながら着実に階下へと歩みを進める二人組の男女は、これまでに立ち塞がった障害を全く苦にすることなく切り抜けていた。現代の閉鎖空間における戦闘とはどれだけ装備を適切に駆使できるかの争いだ。携行用の超広帯域音波レーダーで三次元地図を作り、あるいは小型のドローンを放って周囲の状況を確認し、銃声や足音が響けば即座に音源までの距離を割り出しコンバットリンクに投影し、そうした情報収集への対抗手段として各種ジャマーが用いられ、ドローン同士を噛み合わせ、欺瞞の音響が撒き散らされる。そして完全なる激突の段に至った時、惜しみなく金が注ぎ込まれた身体と武装を持った者が勝利する。小銃を持ちボディアーマーを着込んだ程度の兵士では到底生存の適わぬ世界であり、その鉄火場の中でエレナを護る二人組の男女は頭一つ抜けた手際の良さを見せ付けていた。

加えてバックアップも強力だ。既にマンションの管理システムはインテグラルの手を離れた。嵐の如くシステムに押し入ってきた何者かはまず全館のロックに手を付け、全てのドアや防災隔壁などを開放状態としたまま何もかもを叩き壊して疾風のように逃げ去った。あまりに乱暴な手段で仕掛けてきたため攻撃の拠点を割り出すのに造作はなく、間もなくそこは無人爆撃機によって吹き飛ばされるだろうが、そんな物理的報復などメガコーポとしての面子を保つ以上の意味を持つことはないだろう。

『おい旦那! なんだよこれはこんなの聞いてねぇぞ!』

標的の確保どころか自身の生存すら脅かされている現地のメンバーが怒号を上げる。事前の説明では数人の邪魔者を軽く捻り、小娘一人を車に押し込めばそれで済む簡単な仕事だと聞いていたが、実際に遭遇した相手は狂った火器で正確無比な射撃を行い、仲間を次々と鉄屑あるいは挽肉へと変えていく怪物だった。文句の一つが出るのも当然である。

『あいつら、一発も外さねえ! クラウンレーティングを入れてる怪物じゃねえか!』

『うるっせェーよボケ!! いいからさっさと仕事し……あん? クラウン? あー……、そりゃツェーわ』

人体の強化に用いられるパーツには当然のことながら性能差が存在し、その中でも最先端、最高級と位置付けられるものはクラウンと称される。パーツ自体の値段もさることながら、使用者一人一人に合わせた綿密な調整と手術が必要とされ、掛かる総コストは量産品のおよそ百倍に上る。費用対効果を考えれば全く割に合わない装備だが、そこに目を瞑る覚悟があるならば、個人の能力を底上げする魅力的な選択肢として一部の者から愛好されていた。

『どらどら』

口調の軽い男が現在の戦況全体を追うのを止め、エレナを護衛する男女の挙措だけに注意を絞る。

「一番金を掛けているのは神経系だな。その上でエイムの前後だけモードを切り替えているのだろう」

隣に立つ上司が一足早く見解を口にした。

「でしょうねェ……それにしたってあんなアホ銃で外さないとか、いったいン十倍まで引き上げてんだよって感じですけど。よく身体ぶっ壊れませんねあいつら」

「痩せ我慢が得意そうな奴らだったからな」

「へ?」

「いや、こちらの話だ」

「はあ。でもどーすんですかホント。このままだと全滅しちゃいますよ。いざとなったらシズカを出すことも考えた方がいいんじゃないですか?」

「それができるのは向こうがヴァルキリーを踏み込ませた時だけだ」

「………ですよねェ」

「お前の集めた連中が全滅するのは予想の内だ。本命は別に手配してある」

「あ、やっぱりそういうことしてるんですか」

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「………はぁっ………はぁ……っ」

『美澤さん、疲れた?』

『いや、そういうわけじゃ……』

エレナの自宅は三十七階にあり、現在はそこから階段で移動し二十二階と二十一階の間に位置する踊り場まで到達している。その程度の移動距離ならば健康優良児のエレナにとってそこまで負担なものではない。エレナの頬が紅潮し、息も荒く鼓動が早鐘を打つのは、ここに至るまでの間に目にしたものが原因だった。まるで映画の世界だ。男達が前へと進むたび、拳銃が轟音を上げて死体とも呼び難いモノを作り出す。頭部が消え、胸が消え、あるいは上半身と下半身が離れ離れとなった肉の塊が、蛇口が壊れたように鮮血を溢れさせて廊下や階段の踊り場を濡らし、そんな中を駆け抜けるなどエレナにとっては初めての経験だった。建物の照明が落ちてからミラーシェードの光量補正機能を通して見ているため色彩こそないが、それでも目に毒な光景には違いない。

『血も涙もない女の子の行動にドン引きしてるんだろ』

『えー、私まだ二人しか撃ってませんよ。ほとんどそっちがやったんじゃないですか』

「………そうですよドン引きですよ! なんなのよこれ!」

『なんなのも何も見ての通りだろうが。いや、お前がこいつらに浚われても構わないというのなら俺達はすぐにでも帰るぞ? それが嫌ならこうして死体をこさえんことには安全な場所まで逃げられん』

「せめて気絶させて済ませるとか、そういうのじゃダメなんですか」

『ダメ、それ全然ダメ、無理無理』

女がそれはないないと手を振る。

『そんな都合がいい話などあるわけないと分かっているくせにいちいち聞くんじゃない。もしお前が生き残りたいと思うなら、そんな戯言は二度と言うな。時間と脳味噌の無駄遣いだ』

「ぐ……」

図星だった。言ってみただけであった。エレナにとっての、今までの常識を何気無く口にしただけであった。最早そんな常識が通用しない場所に片脚を突っ込んでいるのだと理解しているはずなのに。

『それよりもな美澤、踏んづけてるぞ』

「へ……?」

エレナが足元を見る。シューズの方に注意を向ければ確かに何か柔らかいものを踏んでいる感触があった。まるで蛇のように床に長く伸びているそれは、近くにうつ伏せで転がった誘拐犯の上半身まで続いている。端的に言ってしまえば死体から飛び出た腸だった。

「………っ!」

悲鳴が喉元まで迫り上がる。身体は今にも飛び跳ねそうになり、だがエレナはそれを必死に押さえ込む。最早ここは昨日までと切断された異界だ。そしておそらくは明日もそうだ。一瞬にも満たない時間の中でエレナは考える。内臓一つ踏みしめただけで可愛く悲鳴を上げるような女の子が、果たしてこんな人を人とも思わぬ輩が跋扈する世界で本当に生き残っていけるのか。もしかしたら生き残れるのかもしれない。ヴァルキリーとなれば生存率は九割だと男も言っていた。だが、戦争が起きればどうなるだろう。そんな時に怖れの心を持つなど自分の寿命を縮めるだけだ。

「………」

「ん?」

「だから何だっていうんですか……? 今は逃げ出すことのほうが先ですよ!」

足を浮かせることもなく、悲鳴も一切漏らすことなく、そんなことはどうでもいいとばかりにエレナは答えた。勿論、それは痩せ我慢だ。言い返したエレナの顔には、この理不尽な事態への怒りと、慣れ親しんだ日々から引き剥がされていく恐怖が露骨なまでに見て取れる。それでもエレナは自分のコントロールが効く限りで男達に対して気丈な態度を投げ付けていた。

『おい、聞いたか南雲?』

『ええ』

エレナに聞こえぬよう男と女が一対一の通信で感想を交わす。

『最高だ。お前が一年掛けてやめた女の子を、こいつは数分でやめたんだ』

『嬉しそうですね』

感情を失うのは簡単だ。諦念の中に身を沈めればいずれ感情は消え失せる。殺戮に慣れるのも簡単だ。人の心は順応するように作られているからだ。だが、己の中で暴れる恐怖を押さえ込み前を向くのは誰にでも出来る事ではない。己を律するための専門的な訓練を受けていなければ尚更だ。感情を失うよりも先に、悲惨な境遇に慣れるよりも先に、美澤エレナは自分の勇気一つを頼りに覚悟を決めていた。

『そりゃそうだ。何せ手加減をしなくて済む。フォローは必要だろうがな』

『手加減しない上にフォローもしなかったらただの鬼ですよ』

『雨宮はそれでも平気だぞ』

『あの子は女の子どころか人間やめてるじゃないですか。で、それはそれとして、ここから先はどうします?』

『もう七、八階は下りよう。そこまで行けば投げられる。馬鹿正直に全部相手をしてたらこちらの身が持たん』

『了解』

『………いや、待て』

新手の接近を察知した男が意識を研ぎ澄ませて各種センサーと周辺に配したドローンから送られる映像を確認する。

『美澤を連れて先に行け! 十五階までは一気に下りろ!』

「へ―――!?」

男の指示を受け、女が有無を言わさずエレナを腰から持ち上げ肩に担ぎ上げた。

「え、え、いきなり何よ! 別に一人でも走れ」

「少し黙りなさい!」

困惑するエレナを一喝し、女はエレナを担いだまま階段を全段抜かしで駆け下りる。

『途中で後詰めに遭遇した場合は!?』

『自力で突破しろ! 無理と判断したら俺の指示を待たずに雨宮を呼べ!』

男が今までの余裕を残していた雰囲気から一転して怒号と共に命令を下したが、彼も新手の接近を完全に確認したわけではない。自分達の後方を警戒するため今も上階に留まるドローンのカメラが捉えた映像は、何かが移動しているようにも見えるという程度のものであり、また音響センサーについても足音とは異なる不審な物音を感知したに過ぎない。コンバットリンクと連動した解析用ソフトウェアも今のところは男達が接近を察知した存在をマークアップするには至っていないのだ。

だが、場数を踏んだ者ならば知っている。その微かな兆候は、現況のような修羅場にあって疑い無き死の足音だということを。即ち相手は自分の存在を灰色のままとして警戒を突破するだけの技量と装備を有していることに他ならず、そんな怪物を相手にしてエレナを護衛する二人が一度に倒れては全てがご破算だからこそ、男は自分が足止めとしてこの場に留まるのを最善と判断し、また女もそれを瞬時に理解した故にノータイムで指示に従っていた。

(この様子だと移動手段は壁蹴りだな……正真正銘のナイチンゲールか!)

ナイチンゲール。それは極限まで強化された身体と卓越した技量を持ち、特に潜入任務と単独行動に秀で、桁外れの戦闘力を誇るエージェントの総称だ。簡潔に言ってしまえば凄腕のNINJA、もとい忍者である。

もし相手が全速力で距離を詰めに掛かっているとすればもはや接触は目前だ。そしてナイチンゲールと一口に言ってもどのような得物を好んで用いるかはそれこそ千差万別である。果たしてどんな形で仕掛けてくるかと男が銃を構え直して上方への警戒を強めた瞬間、複数の擲弾が男の頭上へと降り注いだ。

(数は四、形状は同一、全て那岐島の七三式破片手榴弾。一発ならともかくこの数だと当たり所が悪い物も出て来るか……回避一択だな)

視界に映る都合四つの擲弾を瞬時に識別し、手榴弾の殺傷半径から逃れるべく男が階段の手摺りを飛び越える。攻撃を知覚するや階下へと滑り込むように行われた回避運動は実を結び、間もなく破裂した手榴弾の破片は男の衣服一つすら傷付けることはなかった。しかし初撃を避けたからといって男が何か有利を得たわけでもなく、むしろ状況は半歩ほど悪化している。なぜならば男は回避の成功と引き換えに、望まぬ跳躍を強いられ姿勢を完全に崩したからだ。

階下に着地した男が再度迎撃の態勢を取る。そして男は見上げた先に、半ば透明のまま陽炎の様に揺らめきながら己を目掛けて飛び込んで来るナイチンゲールの姿を見た。

(間に合うか……!?)

男が手にした拳銃をナイチンゲールに向ける。その銃には構造上の都合から物理的なサイトは存在しないが、先端部に内藏された光学機器から送られる映像を頼りに照準を行うため、どれだけ姿勢が崩れていようとただ狙いを付けるだけならば支障はない。とはいえ熱光学迷彩に隠されたナイチンゲールの身体はせいぜい輪郭の判別が可能な程度であり、眉間を撃ち抜き一撃で沈めることは困難だ。かといって四肢のいずれかを吹き飛ばした程度では動きを止めるには至らない。ならば狙うは胸元だ。神経加速により極限まで圧縮された時間の中で、男はナイチンゲールので胸部であろう場所へと狙いを定めてトリガーを引いた。

間近で耳にすれば聴覚が麻痺しかねない轟音と共に、莫大な運動エネルギーを伴った銃弾がナイチンゲールへと襲い掛かる。姿勢を崩されながらもどうにか男が放った銃弾は、直進すれば確かにナイチンゲールの胸部へと突き刺さる軌跡を描いていた。そしてナイチンゲールといえども己を目掛けて正確に飛来する銃弾を回避することは不可能だ。だが、来ることが判ってさえいれば受けられる。ナイチンゲールは男が照準を行うのに合わせ、放たれる銃弾を逸らすべく、超硬質の手甲を纏った片腕を全力で強振していた。

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「あ、大ピンチ」

遠く離れた場所で人目に付かぬよう移動し、適当な建物の屋上に陣取ったセシルが暢気な感想を呟く。その感想はナイチンゲールと一対一で交戦する男の姿に対してのものである。何せ防戦一方だ。必殺を期して放った弾丸はナイチンゲールによって見事に逸らされ壁に大穴を開けただけに終わり、その後は矢継ぎ早に繰り出される攻撃を必死に回避し続けるばかりで反撃の糸口も掴めていない。手にしていた拳銃もナイチンゲールの操るモノウィップによって既に寸断され、次は男の身体自体が輪切りにされるのではないかという有様だ。これはもう死ぬしかないんじゃないかしらというのがセシルの所感である。

「……と思いきや意外と頑張るわね」

セシルが配置に就く前にテイクアウトしたホットティーを啜りながら見物を続ける。

『舐めるなよ、このポンコツが!!』

男の咆哮が通信内に響く。片手をモノウィップに絡ませ、義肢の指と掌をバラバラにされるのと引き換えにナイチンゲールへと肉薄し、頭突きを見舞ってよろめかせるや、あらん限りの力で残った片手の拳を叩き込み、鉄拳を受けて吹き飛び壁面に打ち付けられたナイチンゲールの胴体へと前蹴りを繰り出していた。擬装無しのフルボーグに比べればスペックは劣るが、男も身体の隅々までサイバーウェアを埋め込んだ改造人間である。その格闘攻撃の威力は生半可な火器を遙かに凌ぎ、ナイチンゲールにも確かな損傷を与えていた。

『ねえ』

『何だ雨宮! こっちは忙しいんだ!!』

『見ればわかるわよそんなの。このままだと本当に死ぬわよ? 一秒でいいからそいつの動きを止めて。外から一発撃ち込むだけなら証拠不十分で済ませられるでしょ。その化け物はこっちで仕留めるわ』

『そこから撃つ気か!?』

男もこの現場においていざとなればセシルを介入させることを想定はしていたが、それはあくまで建物内に突入させるのが前提の話である。建物の大規模な破壊を厭わぬならばともかくとして、いかなセシルであろうと建物の外から内部へスマートな援護射撃が可能とは男も思ってはいなかった。

『他に何があるっていうの』

セシルが片手を中空に伸ばすやロングバレルのライフルが顕現する。ホットティーのカップを投げ捨て、自分の背丈程はあろうかという長銃身の得物を手に取り、セシルは素早く膝を付いて構えを取った。

「我、真偶の巫女として……殃が力、拝借せり……!」

短い詠唱を紡ぎ終えたセシルの双眸が炯々とした黄金色の輝きを帯びる。その身に宿した力は龍眼。この時、セシルは一時的ながら万物を透過させ地の果てまでも見通す能力を手にしていた。

『準備よし、いつでもどうぞ』

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(動きを止めろと簡単に言われてもな……!)

男とナイチンゲールの争いは、今や完全な格闘戦へと移行していた。両者が蹴脚と拳打を応酬させる度に重い金属の鈍器を叩き付けるような音が鳴り響く。振り回される四肢は眼にも留まらぬ速度で暴れ、もし両者の目の前に乗用車でも置かれれば数秒と待たずに廃車と化すのではないかという勢いであった。

しかし男の身体は限界が近い。未だ運動能力こそ大きく損なわれていないものの、先程から神経加速の強度を最大としたまま緩めることなく身体を酷使しているため、今の状態がこれ以上続けば間もなく蓄積した負荷により行動不能に追い込まれるだろう。それまでの間に何としてもナイチンゲールの動きを止め、セシルの援護を受けなければ命はない。

ナイチンゲールが後ろに一歩ステップを踏む。その挙措は後退の反動を利用して再び前方に飛び出し更なる強打を繰り出す為の予備動作だ。それは男にとっても見過ごせる動きではないが、ナイチンゲールの側も男がここでナイチンゲールの後退に乗じて追い縋り、致命打を与えられる態勢にはないことを承知しているからこその仕込みである。

だが、それでも男はナイチンゲールを目掛けて大きく一歩を踏み込んだ。腰の乗った拳を放てる姿勢ではない。蹴りを見舞う為の軸もない。男の突進はただ身体を接触させただけにも等しく、全身を強靱な装甲で固めたナイチンゲールに何らダメージを与えるものではなかった。

『雨宮!』

男がナイチンゲールと揉み合いとなった状態から腕を伸ばしてナイチンゲールの首を掴む。そのまま全力を込めてナイチンゲールの身体を振り回してすぐ傍への壁面へと叩き付け、手を離すことなく保持し続けていた。もし今も男とナイチンゲールが完全に一対一の勝負をしているのであればこの一連の動作に意味はない。ナイチンゲールは壁に押し付けられたとはいえ、それならそれで空いたままの手でナイフでも取り出し男の側頭部に突き立ててれば万事解決であり、その行動を今まさに実行せんとしていたが、既にこの場での戦いにおける勝利条件そのものが変更されていることにナイチンゲールは気付いていなかった。

『―――撃て!』

遠く離れた丘の上から必殺の魔弾が放たれる。セシルが撃ち放った銃弾は男達がいるマンションへと瞬時に到達してその外壁を打ち砕き、そして建物内部の壁を一枚、二枚、三枚と貫通し、それでも速度を落とさず角度も変えることなく飛翔を続け、遂には男と揉み合うナイチンゲールの腰部へと過たず着弾を果たしていた。

事態は完全にナイチンゲールの理解を超えていた。もし何事が起こったのかを詳細に説明されたとしても俄には信じられないだろう。一般的な対物ライフルの射程を遙かに離れた遠距離から、幾枚もの壁に阻まれた建物の内部へと正確な狙撃を行うなど荒唐無稽にも程がある。しかし現実としてナイチンゲールはその人外魔境の射撃によって己の身体を撃ち抜かれ、腰の駆動部は完全に大破し行動能力の大半を喪失していた。

男がナイチンゲールの身体を投げ捨てる。腰が破壊されたとはいえナイチンゲールの息の根が完全に止まったわけではないが、歩くことすら適わぬ敵など最早大きな脅威ではない。男は半ば無力化されたナイチンゲールのことを早々に頭の片隅へと追いやり、次に取るべき行動を定めた。

『こちらは片付いた。今から下まで降りる。さっさと美澤をキャッチボールしてずらかるぞ』

『了解。私の方も十五階まで到達しました』

エレナを担いで先行する女からの返答を確認し、男が全速力で廊下を駆ける。そのまま両腕を交差させて手近な窓へと突進し、窓ガラスを破壊しながら男は地上へと飛び降りていった。