夢ソフト

■ unreasonable fate(3)

「侮られるほど若すぎず、失望させるほど老いすぎず。おわかり? 私にはこの顔がベストなの」

                                        ――蓬莱ウルスラ

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美澤エレナは腕組みをして立っていた。目の前では、先程まで自分を担いでいた女が壁で遮蔽を取りながら不埒な誘拐犯達と撃ち合いをしている真っ最中である。小銃の発砲音が絶え間なく響き、時折女の手にした拳銃が他の銃声を掻き消すような轟音を鳴らす。おそらくはその度に誘拐犯の数が一人ずつ減っているのだろうが、もはやエレナはどうにでもなれという気分であり、いちいち狼狽するだけ損だと悟ってからは少なくとも見掛け上は泰然と構えていた。

『一応聞いておきますけど』

『どうしたの』

状況に慣れたのかエレナも女達が参加するリンク内でゲストユーザーとして通信する。

『あたしに何かできることってあります?』

『うん、ないわよ。とりあえず余計なことさえしなければそれでいいから』

『ですよねー……』

女が拳銃の弾倉を交換しながら、エレナも予想していた当然の答えを返した。

『南雲、こちらはいつでも受け取れるぞ』

『バイタル真っ赤ですけど大丈夫なんですか?』

『問題ない』

『了解。ではすぐに』

予備弾倉の装填を終えた女が遮蔽から身を乗り出し、それまでの必中必殺から一転、連続的に弾丸を撃ち込んで誘拐犯達を威嚇する。同時に、これまで警戒のため周辺に配していた小型ドローン全てに吶喊の指示を下した。とはいえ全てのドローンは索敵用であり自爆攻撃の機能を有してはいないが、それが可能かもしれないと思わせるだけで多少なりとも足止めの効果は見込めるからだ。

『悪いけどまた抱っこするわよ?』

『またですか。はいはいいいですよもう好きにしてください』

再び女が片腕でエレナを担ぎフロア内を駆ける。だが階下へと向かう様子はなく、数秒の後に辿り着いたのは外への壁が全面ガラスで覆われた廊下だった。壁に近付いた女が懐からナイフを取り出す。そして手にしたナイフを壁に宛がうや、まるで柔らかいバターを切るような滑らかさでその刃が差し込まれた。

「よいしょっと」

女が身体全体を使ってナイフを持った腕を回し、窓ガラスには大きな円が描かれる。仕上げに女が蹴りを入れると切り取られた部分が地上へと落下し、ガラスの壁には人が通るのに支障ない程度の丸穴が出来上がっていた。

『とにかく身体を縮めてなさい。暴れたら死ぬから』

拳銃を投げ捨てた女がエレナを両腕で保持したまま腰を落とす。身体の向きといい、どう見てもエレナを放り投げる姿勢であった。

「え……、いや、無理でしょそれ!」

『心配無用だ。頭は必ず守ってやる。死ぬことはない』

やばいこの人たちなに考えてんのと流石にエレナの血の気が引いていく。つまり彼らはエレナを窓からぶん投げて、地上で受け取りショートカットをするつもりなのだ。エレナを抱えたまま飛び降りるのは流石に無理だからこその措置なのだろうが、それにしてもあまりに乱暴ではあるまいか。そして死ぬことはないと言ってはいるが、裏を返せば死なない程度の怪我はするかもしれないということだ。

「せーの……」

そんなエレナの焦りなど全く構うことなく女が人間砲弾の発射を開始する。

「どっせーっい!」

『女の子の掛け声じゃないな、それは』

女が全力でエレナを窓の外へと放り投げる。美澤エレナは宙を舞った。マンションの中層階より投げ捨てられ、山なりの軌道を描いてからエレナの身体は重力に従い猛スピードで落下する。

「うそでしょおおおおおおお!?』

投げられた際に若干のスピンが掛かっていたのかエレナの身体は空中で何度か回転し、最早エレナには上下左右の感覚すら掴めない。女がエレナを放り出したのは天井高めのマンションでの十五階だ。もし地面にそのまま叩き付けられれば普通に死ねる高さである。受身など取れるわけがない。エレナに出来ることはただ一つ。女のアドバイスに従い必死に身体を丸め、男が自分を受け止める邪魔をしないことだけだった。

『コースよし』

ナイチンゲールを片付けてから一足早く地上に降りていた男が、宙に放り出されたエレナをキャッチする姿勢に入る。大凡の場所は既に合わせてあるが、少しでも立ち位置を間違えればエレナを上手く受け止めきれずに大惨事だ。男が神経を加速させエレナの軌道を注視し、正確な落下地点へと身体を滑り込まる。そして両腕を斜め前へと掲げてエレナの身体が自分目掛けて飛び込んでくるのを待ち受け、その瞬間は間もなく訪れた。

「ぐっ……!」

男が歯を食いしばる。落下してきたエレナの衝撃を受け止めるべく一瞬という時間の中で慎重に身体を制御し、全身の駆動部を軋ませながら肘を畳み膝を折り曲げ、それでも残る衝撃を殺しきるため、最後は自らの身体をクッションとするようにエレナを抱えたまま地面に倒れ込んだ。

『確保!』

そして首尾良くエレナを受け止めたことを確認するや、男は大急ぎで身体を起こし、先程まで女がしていたようにエレナを担いでマンションの敷地内を疾駆する。

「ぬぐぐぐぐ……」

またも荷物か何かという扱いを受けるエレナが小さく唸り声を上げる。その表情にはもうやだこの人たちという感情がありありと滲んでいた。人の家に突然現れたかと思えばショッキングな事実を告げ、間もなくドンパチを始めるや、次は夜空にエレナ放り投げ死ぬかと思うような目に遭わせ、今も事態は進行中だ。

『三城、援護しろ!』

『うっす』

遠くに見えるワンボックスカーのドアが開き、車内の闇から軽機関銃の銃口が現れる。エレナを担いで走る男の背後からは、エレナを追ってマンションから飛び降りてきた者達や、あるいは他の場所から駆け付けてきた別働隊が迫っていた。三城と呼ばれたスタッフが手にした軽機関銃から援護の火線が迸る。放たれた無数の弾丸によって追っ手の幾人かは撃ち抜かれ、あるいは身を隠すことを余儀なくされたが、それでも追っ手全員を制圧するには至らない。比較的余裕のある者は射手目掛けて反撃を加え、強固な防弾仕様のワンボックスカーの車体には見る間に多くの穴が穿たれた。

そして戦端が開かれた当初からそうではあったが、エレナを護衛する側も、エレナの誘拐を目論む側も、流れ弾による被害など全く頓着していない。敷地の内外を問わず広範囲に撒き散らされた鉛弾は既に大小様々な被害を周辺に及ぼしていたが、その是非を問われたところで両者とも"向こうが悪い"と主張するだけであろう。

物影に伏せていた追っ手の一人が安物のロケットランチャーを肩に構えて立ち上がる。標的は勿論、制圧射撃を仕掛けてきた射手の乗るワンボックスカーであり、すぐさま狙いを付けるやバックブラストで一般市民が巻き込まれるのにも構わずロケット弾を発射した。

『げ――!』

自分を標的とした対車両兵器の発射を確認し、それまで援護に専念していた射手の表情が凍り付く。

『バカが!』

エレナを担ぎながら走る男が瞬時に状況を把握し、空いた片手を使い懐から即座にサブウェポンのマシンピストルを抜くや、飛翔するロケット弾のコースに合わせてフルオートで発砲する。吐き出された拳銃弾はロケット弾の安定板を側面から直撃し、僅かとはいえその軌道を変更させることに成功していた。標的のワンボックスカーを外れたロケット弾はそのまま後方に流れ、近隣の建物へと着弾して大きな爆発を起こした。

『誰が何を持ってるかくらい見ればわかるだろうが!』

『全員の頭を抑えるのなんて無理ですよ!』

『なら車はもう走らせろ! そこで止まってたら狙い撃ちだ! この距離なら駆け込める!』

『了解!』

直後、エンジン音が一際大きくなりワンボックスカーが勢い良く発進する。運転席は無人なものの完全な遠隔操縦に対応しているため直接ハンドルを手に取る必要はない。車両は徹底的な防弾改造により重量が増しており、お世辞にも加速が良いとは言えないが、それでも一度走り出せば追っ手から逃げるには充分だ。

「ぬぉぉおおおおおおおお!」

男がエレナを保持したままワンボックスカーを追って全速力で走る。歯を食いしばり必死の形相で駆けるその姿は、事情を知らぬ者が見れば彼こそ悪辣な誘拐犯ではあるまいかと誤解されても仕方がないものだった。

『南雲はどうするんですか!?』

『あいつは一人で帰れる!』

『確かに帰れますけどね、そうあっさり言われるのもなんか気分的に面白くないんですが』

『知るか!』

エレナを放り投げてから、男達とは別ルートで敷地からの脱出を始めていた女が頬を膨らませた。

『よし……!』

遂に走行するワンボックスカーへと追いついた男がドアに手を掛け車内へと飛び込む。男が飛び移ったのと、車両がマンションの敷地内を離れるのはほぼ同時のことだった。

「タッチダウンですな」

「ああ」

男が抱えていたエレナを座席に下ろし、開けたままとなっているスライドドアを勢い良く閉めた。エレナ達を乗せたワンボックスカーと反対側の車線では、警告灯を光らせサイレンを鳴らす民間警察の車両が現場へと急行する姿が見える。だが、たとえ現場に駆け付けたとして警官隊に出来ることは一つとしてないだろう。何せマンションの敷地は現在インテグラルの領土であり、然るべき許可を受けないことには一歩たりとも踏み込むことが不可能であった。

「……これでとりあえずは逃げ切ったと言っていいだろう」

「車は後で変えますか。さすがに穴ぼこ空いてるので走り続けるわけにゃいきませんし」

「美澤、怪我はないか?」

「………」

「おい、どうした」

「いや、怪我はないですけど……」

言葉の通りエレナは何一つ怪我こそしていないが、非常に疲れたというのが正直なところであった。

「そうか」

「主任の方はボコボコですね」

「ナイチンゲールと殴り合いをすればこうもなるさ」

男の身体からはそこかしこにダメージを受けていることが見て取れる。まず片腕の手首から先がない。そして鼻は完全に潰れ、頬も片方が完全に砕かれその輪郭を歪なものとしていた。着用している衣類は所々が完全に擦り切れ、ボタンが千切れ飛び、何か大事故にでも巻き込まれたのかという有様だ。しかし身体を重度に機械化しているためか、出血についてはそこまで酷いものではなかった。

「あの……大丈夫なんですか?」

「どうせすぐに直す。心配する必要はない」

「でもそんなに怪我してれば痛いんじゃ」

「俺達のような仕事で痛覚遮断をしてない奴は本物のマゾか、あるいは金がないかだ。そして俺はどちらでもない」

「あっそ……」

『あんなに長いこと加速してたんだから痛覚切ったって目眩とかが凄いんじゃないの?』

『ほっとけ』

「……さて、美澤。さっきは"三つ目"はないと言ったが、今もそれに変わりはないか?」

「三つ目だと今夜みたいなことが何度も起こるんでしょ。そんなの選んだりしないわよ……」

「結構。となると他の二つの内どちらかになるわけだが、どうする?」

「………りますよ」

「ん?」

「なるわよ! ヴァルキリーに! だって、こんな―――!」

自分に力がなく、巻き込まれた状況に対して何もできぬまま殺されるのは断じて御免だとの思いを込めて、エレナは叫んだ。

「いいのか?」

「いいわけがないですよ!」

「まあ、それもそうか」

そもそも最初からどれも選びたくはない三択なのだ。なりたいからヴァルキリーになるのではなく、他よりはマシだから仕方なくヴァルキリーになるのである。そのことは男も充分に理解していた。

「………少し休んでてもいいですか」

「安心して休んでいろ。お前がヴァルキリーになるのなら、しばらく危険なことはない」

エレナが座席のシートに深く腰掛け、シートベルトを着用してから心底疲れたように掌で顔を覆う。その姿を見届けた男が自分も一息を付こうとした時、今日連絡先を渡したばかりの相手から通信要請がもたらされた。

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『どうも、美澤です』

『ああ……どうされましたか?』

発信主は美澤エレナの現在の保護者、即ちエレナの叔父であった。

『どうやら家の方が大変なことになっていたようですので、念のため連絡をしておこうかと』

『……確かに大変なことにはなりましたが、エレナさんは怪我一つしておりません。ご安心ください』

何せ首都の住宅街で派手な銃撃戦である。既に各メディアには速報が流れており、中には現場の様子を中継しているものもあった。エレナの叔父がそのニュースを見て男に連絡を取ってくることは特に不思議なことではなかった。

『それは何よりですな。……このままお話を続けても大丈夫ですかね?』

『ええ。今は余裕がありますので。しかし無事を確かめるのであれば直接本人に連絡した方が……』

『告知を貴方達に任せ、どうするべきかを相談する気もない私が話しかけた所でエレナを不機嫌にさせるだけですよ』

『そうですか』

それはエレナと叔父による家族の問題だ。故に男はそれ以上の口を挟まない。

『それで、エレナはどうするかを自分で決めましたかね?』

『……本人はヴァルキリーとなることに前向きです。あくまで他の選択肢に比べれば、ですが』

『なるほど、それはいい知らせだ。私としてもそうしてくれるのが望ましい。骨を折った甲斐があった』

『本当によろしいので』

『本人がヴァルキリーになると言うのなら、それで構わないでしょう』

『……ヴァルキリーになったからといって家族に会えなくなるというわけではありません。必要ならご連絡を頂ければいつでも―――』

『結構ですよ。それに私は仕事の都合で近く真州を離れる。当分戻る予定もない』

『転勤ですか……? どちらへ』

『ジルベリカへ。そのことについては後日エレナにこちらからメッセージを送ります』

『わかりました』

『では、エレナのことを宜しくお願いします』

『お任せください。夕方お伝えした通り、今後の無事についてまでは保証できませんが……』

『重々承知してますよ』

通信は終わった。夕刻に会った時の印象通り、男にとってもエレナの叔父は何を考えているのかいまいち掴み難い人物であった。美澤家、即ちエレナと叔父の間に家族の絆と呼べるようなものは毛の先ほども見当たらない。少なくともエレナの側から叔父に対する真っ当な親愛の情はない。嫌ってはいないようだが、それだけだ。エレナのパーソナリティーは面倒なものではあるが比較的単純だ。叔父についてどう思っているかは、男とエレナが話していた時に垣間見せたものが全てだろう。エレナにとっても叔父とは得体の知れない人物だったのだ。

では、叔父の側はどうか。一部の言動を取れば叔父はエレナを邪魔者と見なしていると捉えることもできる。しかし夕刻に会った際、男達に対する叔父の質問はどこまでも容赦がないものだった。機密として話すことができない部分を除いては全て吐き出すことを強いられたと言ってもいい。もしエレナを厄介払いしたいだけならばそこまでする必要はないのだ。

『敷島、いるか』

男はどうにも引っ掛かりを覚えて振り払えず、本部に待機するスタッフを呼び出す。

『はいはいなんでしょ?』

『美澤エレナの叔父だが……今、どこにいる?』

『どこって……今もあそこじゃないですか?』

首都中心部に林立する高層ビル群のうち一つを映し出した画面がポップアップする。

『勤め先ここですよね? 夕方に主任達と別れてまた職場に戻ってそれっきりのはずですが』

『確かだろうな』

『ずっと姿を確認しているわけじゃないですけど』

『……なぜだ?』

『だってこのテナントはインテグラルの所有ですもん。さすがに中までは…………』

『…………』

『………あ゛』

男の質問の中には一つの仮定が含まれており、問われた側もそのことを察して何かに思い当たったのか声を上げる。おそらく美澤エレナの叔父は、今はもう職場にいない。あるいは本来の職場に移動したと言うべきか。

『―――やられたな。今回の水漏れの原因は俺達だ』

『え、え、え、いやいやいやいや、だとしたら、こんなのどうしようもないじゃないですか!』

エレナの叔父を監視していたのはヴァルキリー素質者の家族である彼が不穏な企みに利用されることを防ぐためだったが、もし彼を再び捕捉しようとするならばその目的は別のものとなるだろう。そして彼が男達の想像通りの人物であるなら、今からその所在を発見するのは困難を極めるに違いない。通信から辿ろうにしても相手が相応の準備をしているならば一筋縄ではいかない筈だ。

『だが、納得はいった。道理で向こうの動きも速かったわけだ。……このことは美澤には黙っておけ。他の奴らには俺の方から話す』

引っ掛かりは消えた。それにしても美澤エレナという少女は随分といい性格をしているが、その叔父もエレナとは別の方向になんとも面倒な性格をしているものだと、男は思った。

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『では、エレナのことを宜しくお願いします』

『お任せください。夕方お伝えした通り、今後の無事についてまでは保証できませんが……』

『重々承知してますよ』

自宅のマンションから遠く離れた丘の上に佇むエレナの叔父が、会話を終えて通信を切る。

「ひーさしぶりですねェ……こういう大勝負で失敗するのって」

次いで叔父の耳に届いたのは、現場を見やりながら隣で感想を漏らす部下の声だった。

「そうだな」

「本社の援護を受けておきながらこれとか、ちょいとまずくないですか」

「どだい時間の余裕も人手も足りなかった作戦だ。やむを得ん」

「まーそりゃそうですけど……後片付けはどうします?」

「警備部に任せておけ。我々の仕事はここまでだ。それと頼んでおいた件はどうなった?」

「そっちはまァ、ぬかりなく。いつでも死んだことできますよ。でも本当にいいんですか。この"美澤"って……本物の戸籍なんですよね?」

「問題ない。明日からは不要だ」

「はあ」

その姓は叔父にとってただ一人の親族であるエレナを養うために残していたものだ。だがエレナがヴァルキリーとなるのなら、歪な形ではあるが彼女は独り立ちを果たすことになる。もうエレナに保護者の存在は必要ない。

(最善の結果とはならなかったが……次善ではある。これで満足するべきだろう)

何を考えてるか全くわからない人とエレナに称されるその叔父は、インテグラルの非合法工作部門に属していた。無論、彼とて姪がヴァルキリー素質者であることを前々から知っていたわけではない。それを知ったのは夕方に真州政府の要員が己を尋ねて来た時だ。そして事実を知った彼が最初に考えたことは、何がエレナにとって最善かというものであった。

ヴァルキリーにならないという選択は下の下である。真州政府の人間がエレナに伝えたように、素質者であるにも関わらずヴァルキリーとならないのはある意味では自殺行為にも等しい。であれば当然、ヴァルキリーとなる道を選ぶしかないのだが、問題は真州の今後にあった。叔父の見立てでは真州連合共和国と隣国カルディヤ連邦の衝突は不可避である。現在の真州最大野党の党首であり、元ヴァルキリーの英雄という経歴を持つ蓬莱ウルスラはあまりに強い。政権の座に就いていないにも関わらず、己のコネクションを頼りに野党の立場から第三世代機フレイムリリーの配備を推進するという離れ業をやってのけた彼女は、来る総選挙で必ずや首相の椅子を掴み取り、真州を戦争へと導くだろう。もしそれが実現したならば、カルディヤ連邦との交戦と軌道の法廷による制裁で、真州のヴァルキリーは大半が戦死を余儀なくされる。それは真州にとって完全なる破滅のシナリオだが、蓬莱ウルスラが理性の皮を巧妙に被っただけの、狂気に侵された異常者であることは、一部の者には確かな事実として知られていた。つまり今から真州のヴァルキリーとなるのも悪手には違いなく、しかし真州の国民であるエレナは自国のヴァルキリーとなるしかない。そして叔父は真州内で活動する諜報畑の人間としてその事実を知るが故に、エレナに別の道を用意すべく即座に行動を起こしていた。その行動とは、エレナの安全が確実に保障される国家へと引き渡す為の準備である。

メガコーポ・インテグラル。永世者によって統治され、常に大戦略を誤ることなく、他のメガコーポに比して頭一つ抜き出たポジションを保つ世界最強の企業国家。擁するヴァルキリーの扱いも良好であり、過酷な境遇に置かれた者からすれば羨むしかない待遇を与えている。但しアイドル活動もしくは流石にヴァルフォースには従事させられるという欠点はあるが、そんなものは充分に目を瞑れる範囲の問題だ。

真州の要員が叔父に告知を行った時点で既にエレナは監視下に置かれていた。もし叔父が正面からエレナをインテグラルに引き渡そうとしても、真州側はそれを全力で阻止するだろう。そこで叔父は事情を包み隠さず上長に明らかとした上で、美澤エレナの強制的な身柄確保を提案し、そのプランはインテグラルの支配者による直接的な承認の下で実行に移された。知らぬは本人ばかりである。

それでも終わってみれば作戦は失敗だ。限られた時間の中で掻き集めたフリーランサー達も、大金を積んで雇ったナイチンゲールも、エレナを確保するには至らなかった。エレナをインテグラルのヴァルキリーにするための試みは予想を超える抵抗によって頓挫したのである。だが、叔父が最も案じていたのはエレナが突き付けられた運命に対して日和見な態度を取ることであり、尻に火が点いたエレナが真州のヴァルキリーとして生き抜く覚悟を固めたというのであれば、それならそれでいい。ここから先はエレナ次第だ。以前より耳にしていた真州におけるヴァルキリーの待遇に関する情報と、夕方に会った男達の話に大きな乖離はなく、彼らは彼らなりの誠実さを以てエレナを扱うことだろう。

義務は果たした。出来の良かった弟とは異なり、生きる道を盛大に踏み外して影の世界に沈んだ社会不適合者こそ美澤エレナの叔父である。元よりエレナは望んで引き取った娘ではない。不慮の事故に遭った弟が、家族の中でただ一人軽傷で済んだ愛娘の今後を案じながら、どこに居るかも分からぬ遠く離れた実兄へと向けて今際に送った短いメッセージと願い。それを完全に無視することもできなかった結果が、お互いの事を何とも思わぬ叔父と姪が暮らす美澤家だ。一体それで誰が幸福になったというのか。エレナは己を幸福だとは思っていないだろう。そして叔父の側といえば、そもそも人格ソフトの常用により既に心の在処がわからないという有様である。だが今という時は後から振り返れば所詮は途中経過であり、真の結果が出るのはこれからだ。両親に愛されて土台を築き、その後は徹底した自助努力の心構えを叩き込まれた美澤エレナという少女が、有意義な人生を送れるか否かは誰にも分かりようがない。

「んーじゃ俺らも引き上げますか」

「そうだな」

叔父が部下に促されて路傍に駐車していたセダンの助手席に乗り込む。

「行き先は白響の滑走路でしたっけ?」

「ああ。都合良くジルベリカ行きの輸送機があったからな。そのまま明け方を待って発つ」

この国で叔父が為すべきことは最早ない。これ以上留まっても面倒事が増えるだけだ。一度は捨てた故郷である。エレナの人生が自分の手を離れた以上、再び真州の地を後にするのに何一つ抵抗があろうはずもなかった。

「いくらなんでもフットワークが軽すぎやしませんか」

「どうせ向こうにはいつ来てもいいと言われている」

「残されるこっちの身にもなってくださいよホント」

「私がこの街で築いたものの大半はもうお前に引き継がせてあるだろう。上手く管理しろ」

「うぃっす」

空からはいつの間にか雪が降り、次々と地面に落ちては小さな雫となって消えていった。